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上星川だよりー116年の歴史に幕とじる

 南河原村の閉村式典が、12月10日南河原小学校体育館で行われました。
 1889(明治22)年4月に、明治の大合併で南河原を中心とする近隣の村(馬見塚、中江袋、犬塚)が合併し、現在の「南河原村」が誕生しました。
 このときの合併は、江戸時代の「自然村」を統廃合し、基礎的自治体とし、その全てに小学校を置くことにあったとされています。南河原小学校「開校120周年記念誌」では、この日をもって「小学校令により南河原尋常小学校」となったとあります。
 「昭和の大合併」は、新憲法のもとでできた「新制中学校」を、全ての市町村に設置することをめざし、最低人口8,000人、市町村の数を三分の一にすると「町村合併促進法」が制定され合併が推進された云います。
 この昭和の大合併の時、南河原も村を二分する大騒動に揺れました。(南河原村閉庁記念誌に「行田派、熊谷派、村を二分した合併問題でゆれる」として、二分の一ページを割いて記述されています。)
 この時の騒動が、その後の政治的な争いの源とされ、久しく政争の村として世間を騒がせました。同一人物が二度もリコールで村長職を解任されるというギネスブック級の話題もあり、ワイドショーやNHKのニュースでも取り上げられました。
 今回の合併は、政府のアメとムチによる誘いに、村長と保守の議員が早々にギブアップしてしまったことから、表立って異議を唱えるものもないまま、こともなく進められました。ただ一つ誤算だったのは、行田市と南河原村の一市一村の合併となったため、吸収合併となり議員任期の特例が受け入れられず、村議全員が合併をもって失職することになったことでした。保守の議員からは、「こんなはずではなかった」という恨み節が、今でも聞こえてきます。




 2006年1月1日の行田市との合併を前に、12月10日南河原小学校体育館において、南河原村閉村式典が行われました。
 これには、村内外から約200人の方が招待され、116年の歴史に幕を降ろすこととなった式典に立ち会いました。
 武蔵暴れ太鼓のオープング、今村助役の開式のことば、小暮村長の式辞、中戸議長のあいさつに続いて、今村参事(総務政策課長)が合併の経過報告を行いました。
 続いて、南河原小・中学校の各PTA会長親子二組による「村民メッセージ」の発表があり、就任以来初めてで最後の来村となった上田埼玉県知事をはじめ、合併相手の横田行田市長、現・前の衆議院議員、県議、北埼玉郡町村の首長、議長等の来賓あいさつがありました。
来賓紹介では、元助役の大橋加須市長と米持千葉市議や行田市議会議員全員、市役所の幹部職員などが紹介されました。
 村レデースハーモニーと参加者全員による「ふるさと」の合唱のあと、村旗・村民憲章額が降ろされ、小暮村長に引き渡されました。最後に、田中収入役が閉会のことばを述べ式典を閉じました。
 「村民メッセージ」の中で、「南河原村の学校給食は無くなってしまうの?」との小学生の問いかけに、横田行田市長は、「無くなりません。地産地消で美味しいです。」と応えていましたが、南河原評判の自校方式の学校給食は、来年3月で廃止となります。
 閉村式の翌々日の12日、吉野都美男元南河原村長が死去しました。吉野村長は、リコールにより二度解職されながらも、現職村議をはじめとして今だ信奉する人がいて、良識ある人からは忌諱の念をもたれていました。図らずも閉村式の二日後に逝去されたということに、因縁めいたものを感じ、まさに「新生南河原」との思をされた方も少なくないはずです。




百周年記念碑と村総合庁舎碑廃棄をまぬがれる
 南河原村総合庁舎は廃止され、来年1月4日から、「行田市南河原支所」となります。
 よって、庁舎石碑は必要ないと百周年記念碑とあわせ撤去(廃棄)される運命でしたが、役場敷地内の小学校体育館側に移設され、残されることになりました。(上の写真)


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